悔いなき人生を歩んだ一人の生徒
     故内田尚克君との思い出

彼が私のところへ、第一作「悲しみ笑い」という詩(もはや遺稿の所在はわからない)を批評して下さいと来たのが、彼と私の最初の詩のつきあいであった。青春の孤独と苦悩の果てに、無理に笑いを浮かべて生きてくしかないという内容であった。詩のリズムに魅かれながらも誉めることが不得意な私は、内容のセンチメンタルと安易に言葉を選びすぎることを指摘した。二週間程経て、第二作「逃亡の果て」「夜明けは夜明け」他二、三篇の詩を見せに来た。次から次へと溢れるようにして詩が作れるらしい。自己の内面の暗さだけを詠むのではなく、明るい詩も作りなさいと指摘すると、しばらくは詩を見せなくなり、かわりに進学のこと、家業を引き継ぐこと、健康のこと等、生存中、彼を知っている人なら誰もが言うように、あの屈託のない明るい調子で冗談を交えて、放課後話をしに来るようになった。級友達が追悼文にも書いているように、相手の気持ちを大切にし心を和らげさせ、それでいて後に深く心に残る話しをする雰囲気を持っていた。

当時の私の日記に、
○月○日
内田君と話す。原綿の何キログラムもある塊を、健康の都合で運搬できない。家業を継がないで文筆家になりたいとのこと。家族の反対はないが、文筆家としてやっていく自信がないらしい。「将来に自信のある人間は一人もいない。ただ、どんな逆境に陥っても、強く明るく豊かな人生を歩ませて頂くという保障があるだけだ」と話す。家業が嫌で継がないのでもないし、親が文筆家など夢みたいなことを言うなと叱ってもいない。お互いに認め合うことのできる家族らしい。「青色青光、赤色赤光」について考える。
    〈自立と共存〉
梅の木に梅の花
桜の木に桜の花
何の不思議もなけれど
あなたはあなたで美しく
私は私で美しく咲く
大なる大地の願いに
共に同じくつつまれながら

○月○日
 今度生まれるとしたら何になりたいかと言うから、「同じ家に生まれて、同じ人生を歩んで、お前を同じように叱ってやる。」と言ったら、僕も同じだと言う。笑いながら、「先生は酒樽が似合うよ。」
    〈悔いなき人生〉
如何なる業苦に沈んでも
同じ人生を歩む
弥陀の慈悲に
触れさせて頂いた人生だから

○月○日
「放課後学習」の終った後、職員室へ内田君が来た。最近、勉強意欲もなく、自分に素直になれないから叩いて喝を入れて欲しいと言う。生徒から叩いてくれ、と頼まれたのは初めてである。仏様ではあるまいし、いつも素直で生きられる筈がない。素直でないのはお前の頭で、全身の細胞は素直で生き生きしていると言ったら、困ったように、口をへの字にして立っていたから、俺だって素直になれないし、働く意欲がないのは、お前以上だよ。ただし、素直になれる方法を知っていると言ったら、教えて欲しいと言うので、胸と腹に手をあてて、胃さん心臓さん、素直でない私で申し訳ありません。そんな私にかかわらず、あなたはいつも私のためにありがとうございますと、十遍言ってみなさいと教えた。最近、私も自分に感謝することを忘れている。自分にさえ感謝できないものが、人に感謝できる筈がない。
     〈感謝〉
自分にありがとうと言える
うれしい私

○月○日
平等について内田君と話す。重度精神薄弱者は、自分が人間であることもわからないから、社会から隔離して保護すればよいと言うから叱った。確かに彼等が社会生活を営むことは大変難しいであろうが、彼等も人間である。平等に接すべきだ。地球上に無数の生物がいる中で、人間に生まれさせてもらうことがどんなに有難いことか。「人身受け難し」である。黒板に小さい地球を書いて、その上に二本足で立っている人間を書き、「オギャー」と生まれることの有難さを説明したら、理解したらしい。人間の理性にだけ価値基準をみとめ、人間存在そのものに価値を見出さない傾向のある社会通念のひずみかもしれない。
    〈平等〉
濁水も清水も
海に入りて一味なり
我も彼も慈悲の潮に
一味なるよろこび

○月○日
生きる責任について話す。稲の生命も、魚の生命も人間の生命も、生命の一点においては同じだ。無数の生命の犠牲に人生があるのだから、食べた生物の代りに一生懸命生きる責任がある。食べ物に感謝せず自分の人生に責任を感じなかったら、吸血鬼と同じだと言ったら、「酒ばかり飲んでいると、昨日食べた魚が腹の中でないているぞ」と、先手を取られた。
罪悪深重の私を
強く明るく生かさせて頂く
ありがたさ

彼との想い出は多い。彼との話し合いから私自身深められていくことをかんじたものだ。
こういう時期を過ごしているうちに二学年の三学期をむかえ、例年のクラス詩集を編纂するこ取になった。久しぶりに私に見せてくれたのが、「光の中のおしゃべり人形」である。今までの詩風と違い、見栄、虚栄、偽善を気にせず真実の光の中で何事にも拘泥されないで自由に話のできる自分になったという詩である。精神の深まりに驚嘆し、詩集の題にもした。これからすばらしい詩を多く作れることを確信したのに。生前中に私に見せてくれた最後の詩になろうとは、当時夢にも思わなかった。
彼の最初に入院は、小学校時、心臓の手術をした際のペースメーカーの検査のためで、四月の始業式までには退院できる予定であった。検査の結果、心臓に水が溜まっているからそれを抜くことになった。いつもの明るい調子で、五月の連休明けには登校できると電話をかけてくるので、心配もせずにいた。水を採ってみると、血が混っており、その原因を調べる検査が続いた。精神的にも不安であったと思うが、週に何度かの電話では、同室の人達とのあたたかい心の触れ合いのこと、若いきれいな看護婦さんのことを話してくれた。しかし、級友のこと、大学受験のことなどは、さすがに心配であったらしい。国語のよい受験参考書がないか等私に尋ねた。とりあえず、受験勉強のことは考えず、身体を治すように。余裕があれば、「天声人語」のコラム評を書き、退院後までの宿題ということで指示をした。死後初七日が過ぎて、両親が、「生前中家族のものにも見せなかったものです。読んでください。」と手渡されたコラム評を読み、感無量になり、茫然とした。純粋な彼の目で評が書かれ、彼の精神の向上と、文筆の才をうかがわせるものばかりであった。
彼の生前中で最も私の心に残っているのは、手術三日前の最後の電話である。いつもの屈託のない会話の後、「手術は頑張る。もしここでくじけたら、吸血鬼と同じだ。吸血鬼だけにはなりたくない。手術の成功を級友達と念じていてくれ。」いつまでもこの彼の最後の言葉が耳の底から離れることはない。手術後順調に回復し、二学期から登校できると両親から聞き、級友達の励ましの手紙を届けるために女生徒が家を訪ねた日に、彼の死を聞くとは、想像さえしなかった。彼の人生は十八年という短いものであったけれど、両親のあたたかい愛情と弟思いの姉の愛とにつつまれながら、常に前向きで、強く明るく豊かな人生を送った。彼の目に触れることもなく級友達の手紙とともに、彼の遺体は埋葬されたが、私・同級生の胸の中に新しく生まれた彼は、生涯悔いなき人生を送った一人の人間として消えることはないだろう。