「薬師岳」登山、二日目

登山をする人たちの朝は早い。日の出前に準備をして日の出とともにもうすでに山に向かっている。私たちは山小屋の朝食時間に合わせ5時に朝食をとる。睡眠時間も充分だ。昨日は缶ビール一本だけである。30年以上酒を愛してきた男にとっては初めての事だ。昨日の疲労もあまりない。体調はすこぶる良い。

右足のかがとに少し靴擦れがある。平生はそのままにしておくのであるが、安全をとって、傷ばんを2枚重ねその上にテッシュペーパーで保護し、普通の靴下で固定して登山用の厚い靴下を履く。

田原さんは、私より早く起きて外で日の出の写真をとるつもりで、シャッターチャンスをねらっていたそうだが、満足できる光景には会えなかったようである。

 

「太郎平」から「薬師岳」の頂上までは登り3時間、下山2時間の参考タイムである。頂上での休憩と昼食時間を1時間として6時間30分、午後1時までは「太郎平小屋」にはもどれるだろう。体調がよければそのまま「折立」まで下山すれば6時には折り立て」には着く。

天候も良いし、体の調子も良い。気合も充実してエネルギーに満ちている。

「薬師岳山頂」へ向かって出発だ。「太郎平小屋」を6時に出発する。

高山植物に囲まれなだらかな山道を登りはじめる。しばらくすると急にくだりの山道に入った。下のほうからせせらぎの音が聞こえてくる。キャンプ場だ。テントで一夜を過ごすことも魅力である。

「薬師峠」の表示板がある。ここからは沢に沿って登る事になる。沢に沿って登るのは初体験だ。かなり大きな石・不安定な石がゴロゴロしている。歩きにくい。田原さんも右に左に体の角度を極端に変える。安全な石を探し誘導しているのだろう。ステッキは石で十分に体を支えるほどにはさす事はできない。

不安が心をかすめる。その瞬間、右足の石に体重を乗せたとたん石が動いた。体のバランスが崩れて左足の石を探したが大きな石で左足を乗せる事はできない。一瞬不吉な予感が頭をよぎった。このまま沢に転落するのでは?誘導ロープを放し、左手で大きな石に手をつき、なんとか体重のバランスをとった。

上からの声の誘導で左足の安全な石に体重を乗せなんとかこの場をしのいだ。決して沢に転落するような険しい所ではないと説明されるが周りの状況は全くつかめない。歩幅30cm前方の石に足を乗せることさえ不安である。後から登ってくる人たちは気持ちの良いほどリズミカルな足音を立てて追い越していく。今まで気にもしていなかった靴擦れの痛ささえ激しく感じてくる。

どの資料にもこの沢沿いの登りの危険性は書いてはなかった。晴眼者であれば何でもないコースなのだろう。

一瞬よぎった転落の不安を払拭する事はできない。次の安定した石への体重移動が思うようにならない。恐る恐る足を出して石を探すのだが見つからない。生来の短足を恨んでも仕方はないのだが。

退きかえすのも不安、登るのも不安だ。どっちも不安ならば、登るしかない。そのように考えた途端、気分が楽になった。左手で持っていた誘導ロープを手放し左手で大きな石を探して体を安定させる事を思い立った。

人間の体を支えているのは足だけではなく両手も支えているのだということを実感した。体のバランスさえ確保できれば安心して上ることができる。かなりの体力と時間を費やしたが、やっと沢沿いの山道を越えて稜線に出た。

あたりは明るく山道というよりお花畑の中を歩いているような感じだ。休息をとる。稜線に出たのは8時だから、参考タイムより1時間近くも多く、苦闘していたのだ。水が美味い。干し梅干の塩味が口の中に広がってなんともいえない快い味である。

田原さんは高山植物に焦点を合わせてシャッターを切っている。

人を恐れることを知らないのか、鳥が何羽も近づいてきた。鳴いていないので鳥の確認はできない。蟲を食べている所をカメラに収めたらしい。きっと良い写真だと満足そうである。

後から登ってきた夫婦が私たちに声をかけてきた。昨日したでテントを張って今日はゆっくりと「薬師岳の頂上」に登るという事だ。お互いに周りの高山植物の話をしながら楽し想である。鳥の名前を尋ねると「ホシガラス」ということだ。

登山にもいろいろある。より早くより高く上ることを求める人たちもあれば、この夫婦のように、自然を親しむ。私のようにただひたすら大地を踏みしめて歩く。思い思いの登山者を山は黙して包み込んでいる。そんなことを考えながら歩み始めた。

なんでもない山道なのに田原さんのペースがあがらない。仕切に足元を必要以上に気にかけている。先ほどの私の沢沿いの登りの不安が影響しているらしい。

しばらく行くと道が二手に分かれていた。標識は出ていない。とりあえず道の流れに沿って登る。登るに連れてと人が通った形跡がなくなってきた。行き止まりである。

元にもどってもう一つのの道を登る。急に辺りが開け高山植物の花畑になった。周りの稜線もはっきりと見える。素晴らしい眺望だ。しかし、後の道はない。どうやら迷い込んだらしい。

天候は良いし慌てることはない。先ほどの休憩の場所に戻れば良いだけだ。せっかくの展望を楽しむ事にした。素晴らしい稜線に囲まれた名も知らぬお花畑、少しロマンチックになり何枚も写真を撮ってもらった。

キンポウゲやツガザクラ、ハクサンイチゲの咲いている別天地に別れを告げ、先ほどの「ホシガラス」がいた場所へと戻る。

やはり私の不安の影響で足元にばかり気を取られどうやら横道にそれたらしい。コースを確認して頂上へと向かう。

小さなピークを過ぎ、歩みのペースもようやくあがった。

途中で昨晩夕食をともにした夫婦の下山とすれちがう。奥さんは息も乱れず笑顔で話しかけてくる。その笑顔に勇気付けられ歩を進める。

しばらく行くと「薬師山荘」(2700m)の赤い小屋が見えてきた。9時45分「薬師山荘」に到着。

山荘内に入り暑いコーヒー(500円)を所望する。汗をかいた後の暑いコーヒーも格別な味である。

山荘の主人「堀井よし子さん」の話によると視覚障害者で団体ではなく個人として薬師岳に登ったのはどうやら私たちがはじめてであるらしい。

15分ほどの休憩で頂上へ向かう。ここからは花一本も咲いていない砂岩をひき詰めた急な山道が続いているだけである。杖を少し右についただけで、かなりの砂岩が崩れていく。

私にとっては沢沿いの山道よりもはるかに登りやすい。

砂岩を踏みしめ踏みしめ確認して登る。しばらく歩くと頂上が見えてきたという。しかし、それは頂上に建てられたものではなく嘗て愛知大学の学生が冬山で13人遭難した慰霊のためのケルンであった。下山道を間違えて黒部の源流に向かって下りたのだ。右手東側に黒部の源流に続く尾根が続いている。荒れた吹雪の中では視界が全くきかなかったのであろう。吹雪の中、黒部の源流を、さ迷う若者の姿を考えると、あついものが、こみ上げてきた。掌をそっと合わす。

頂上は回りこんだ奥の所にあった。ついに「薬師岳」の頂上(2926m)に立った。(10時55分)感激である。周りの稜線もはっきり見えて素晴らしい眺めを背景に記念撮影をしてもらう。

社には薬師如来と愛知大学生13人の慰霊が奉ってある。ここでも社に向かって、掌をあわす。

健康で屈強なわかものの命を奪い、殆ど眼の見えない私が今この場所に立っている。山の厳しさと受容の深さをしみじみと考えさせられる。

男女数人の学生のグループが昼食をとっている。男は30k、女は20kを背負ってきたアルプスを横断しているらしい。女子学生の方が元気で気軽に話しかけてくる。持続力を必要とする登山は案外女性の方が肉体的にあっているのかも知れない。

11時20分山頂に別れを告げ下山する。薬師山荘の前のテーブルで昼食

充分休憩をした後12時40分「薬師山荘」を後にする。予定の時間からはかなり遅れている。今夜はもう一泊「太郎平小屋」に宿泊だ。そうと決まれば急ぐ事はない。ゆっくりと山行を楽しむ事にする。

田原さんは写真を撮り、私は足元の石と土を手にとって、大地の感触を足だけでなく手でも感じとっている。二人を包むようにすがすがしい風が吹き抜けていく。この風を「お浄土から吹いてくる風と誰かが言ったそうである。本当に良い言葉だ。

今到達した「薬師岳」や水晶岳を眺めながら、高山植物のなだらかな道を終えると、私にとって難所の

沢沿いのくだりに入る。「13時30分」下り開始。登った時よりは恐怖感はないがやはり、思うようには足が運ばない。なんとか「14時45分」キャンプ場に到着する。

沢沿いの大きな石や浮石のある場所を登るテクニックを身に着ける必用がある。今後の課題だ。

予定よりはるかに時間がかかったが無事「太郎平小屋」に(15時20分)に到着。

一泊2色で「8400円」を払い部屋に入る。

荷物を置き、早速ビールで乾杯。

 

薬師三日目に続く